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かって、大自然に守られた日本の河川は美しく、水も清らかで「世界一美味しい」と賞されていました。
日本の美しい水に清められた感性が、素晴しい芸術作品を生み出します。「日本の水は美しかった」この観世水もそう語っているようです。
川面に現れては消えて行く、雨の滴を想わせます。茶道の裏千家の好み柄で、始まりも終わりも無い茶道の世界観を表しています。
「はかなさ」「空しさ」を感じると共に、夜空にきらめく星を見上げた様な壮大な気持ちにさせてくれます。
古来、中国では梅、菊、蘭、竹を四君子「四つの徳のある草木」としました。蘭は「善人は蘭の如し、王者の香りあり」と蘭の良い香りを身に付ける事で、邪気から身を守ると信じられています。日本でも端午の節句に菖蒲湯に入るのは、良い香りで邪気払いをする意味が込められています。
都が京都に在った平安時代は貴族文化が最も華やかな時代でした。優れた工芸品、文学作品も多く作られました。
この桐紋は、当時を思わす優雅なデザインから「平安桐」と名付けられました。
蝶は中国では八十歳を意味する言葉と同意であり長寿を表す言葉と同意であり長寿を表す吉祥紋とされました。
また、蝶は変態をする事から、回生や復活の象徴でもあります。この光悦蝶のモチーフは昼に舞う蝶と言うよりも、夜に舞う蛾の様に見うけられます。
寒い冬から目覚めた梅の花が元気に香っています。光琳の絵画によく見られる、花や鳥等の自然のモチーフを単純化した文様の一つでモチーフの輪郭を強調したユーモアな意匠です。
光琳没後も、擬人化したような生命感溢れる画風は、多くの作家にアレンジされ「光淋文様」として今日に受け継がれています。
尾形光琳は、江戸中期に活躍した絵師です。「琳派」とは、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、酒井芳一等に至る系譜を言います。
この大波も光琳の絵画を意匠化した物で、大波の一瞬の姿を大胆な曲線で見事に表現しています。先人の洞察力、意匠化する技量も称賛されています。
松は代表的な吉祥紋様の一つです。家紋にも多くの意匠が有りますが、特にユーモラスなデザインが多く在ります。
この「光琳松」も松が近所の噂話、陰口に盛り上がっている様に見えます。少し不気味ですが発想が面白く、光琳没後のアレンジの一つだと思われます。
光琳のモチーフを単純化する画風から意匠化されたので「光琳菊」と呼ばれています。
またの名を「万寿菊」饅頭のような形の菊なので、めでたく万寿の字を当てています。勢いよく描かれた筆跡、墨のかすれた様子まで見事に彫刻されています。
別名「光琳桐」。ヨーロッパでは吸血鬼ドラキュラのイメージから不吉とされる蝙蝠も中国では、福を呼ぶ物とされています。
中国では発音が同じである事が深い意味を持つ事から「蝠」は「福」とされ吉祥紋様とされています。この光琳桐もどこか蝙蝠の雰囲気を残しつつユーモラスに意匠化されています。
「おたふく」顔とは、下膨れの顔で頬がふっくらしているのが特徴です。今では不美人を指す蔑称として用いられていますが、平安朝の時代にはこれが日本美人の典型とされていました。
嫁ぎ先の家に多くの福を呼ぶ女性と言う意味から「お多福」になったと云われています。唐紙の「お多福桐」は琳派文様の一つですがふっくらと福々しくデザインされています。
尾形光琳は、江戸中期に活躍した絵師です。「琳派」とは、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、酒井芳一等に至る系譜を言います。
この大波も光琳の絵画を意匠化した物で、大波の一瞬の姿を大胆な曲線で見事に表現しています。先人の洞察力、意匠化する技量も称賛されています。
カキツバタは、東アジアに分布する多年草で湿地の近くで、初夏に青紫の花を咲かせます。名前の由来は、花の汁を布にこすりつけて(書き付けて)布を染めた事から「書き付け花」と呼ばれ、「カキツバタ」と変化しました。
漢字の「燕子花」は紫色の花がツバメの飛ぶ姿を連想させるため付けられました。
六月初旬、燕子花が開花の頃に「ツバメの赤ちゃん」が巣立ちの練習を始めます。
愛らしい姿は、古<から和歌や絵画の題材として愛されてきました。
秋の野山に咲く草花のモチ ー フには、主に萩や葛、桔梗、藤袴、撫子、女郎花等がみられます。
厳しい夏から秋にかけての季節の移ろいを表し美術工芸の装飾に愛用されてきました。
秋草の優しく可憐な姿には、静寂の趣があり、日本人の美徳を感じる事がことが出来ます。
桃山時代の絵師、長谷川等伯の作品の一つに大徳寺三玄院の「山水図襖」があります。
当時の京都画壇は、御用絵師 狩野永徳率いる「狩野派」の独壇場でしたが、等伯は、強いライバル意識を持ち果敢に挑んでいきます。
名声を得たい等伯は、三玄院の住職に作品の制作を持ち掛けますが断られてしまいます。
すると、住職の留守中に勝手に上り込み、「桐の唐紙」の上から絵を描き上げてしまいました。住職は激怒しますが、その絵の素晴らしさに感動し後の世まで大切に使い続けます。
更紗柄の写しと思われる異国の紋様です。
鳳凰に龍、 麒麟でしょうか?鹿の様な動物がいると思えば熱帯性気候を連想させるオウムの様な鳥に蟹、魚、漁や貿易にでも使ったのでしょうか?
屋形船らしき乗り物と頭髪を丸く束ねた人物も登場します。
何処か南の島国にまつわる伝統や風俗を後世に伝える意匠にも見え想像力をくすぐる面白さがあります。
臥蝶(ふせちょう ・ふせんちょう)• 八藤(はっとう、やつふじ)と呼ばれる丸紋は有職紋様で、装束や調度品に使われています。
貴族の社会には様々な法令や行事、習慣、儀式があり、その知識を有職故実(ゆうそくこじつ)といいます。
平安時代以後の古来からの先例を守る、 伝統主義的な考えに基づき貴族の教養として重視されてきました。
朝顔は、奈良時代末期に遣唐使により薬として輸入されましたが、可憐な花が人気となり観葉植物として栽培されるようになりました。
特に江戸時代に入ると江戸庶民の間で爆発的な人気となり先をこぞって品種改良が行われ、八重咲や花弁の細いもの珍しい形の朝顔が次々に生み出されました。
やがて、時代は江戸幕府から明治政府へと激動の時代変わりゆく暮らしの中、人々のささやかな楽しみとして今も身近に咲き、心を和ませてくれます。
鳳輦(ほうれん)とは、屋根の上に金色の鳳凰を付けた天皇の乗り物です。
神社のお祭りに見る神輿(みこし)の様な外観で人が担いで移動しますが、実際に人が乗れるように中は空洞になっています。
この小葵紋は、奈良にある手向山八幡宮の御鳳輦に使われている事から鳳輦葵」と名付けました。
雲柄は仏教的な装飾に使われる事が多く、瑞雲はめでたい事の前兆として現れる縁起の良い吉祥文様です。
飛雲は風に吹かれて飛び、千変万化する瑞雲の様子を図案化したもので種類も豊富です。
かつての天文家達は運気を読み、天候の変化だけでなくその動きや色、形で吉凶を占い、その予言は国策にも影響をあたえました。
葡萄と人類の関わりは古く、紀元前3,000年頃にはカスピ海沿岸でヨーロッパプドウの栽培がされていました。
同時にワイン醸造の技術も発展し、メソポタミア文明や古代エジプトでもワインは珍重されプドウ栽培は大々的に行われてきました。
古代遺跡に彫刻されたパルメット、葡萄唐草などの連続文様はシルクロードにより中国、日本へと伝わり立涌柄の基礎になったと考えられます。
獅子噛とは、獅子頭を図案化したもので「シシガミ, シガミ」と呼ばれ、神社や、だんじり祭りの「だんじり」の屋根装飾、兜や鎧などの飾りに用いられました。
仏教では、獅子の頭には霊力が有り悪を食べてくれると信仰され、伝統芸能である「獅子舞」が人の頭を噛むと、ご利益として邪気を払い、無病息災、子供は学力が向上すると伝えられています。
別名『鳥襷』
襷(たすき)とは、着物の袖をたくし上げるために、肩から脇にかけて結ぶ紐のことです。
交差する線を尾長鳥で表現した鳥襷は、有職文様の華やかなバリエーションのひとつです。
屏風裏紙として良く用いられますが、その場合は「雀型」と呼ばれます。
霞は、自然現象で形の無いもので、それを文様化した感性は、日本独自のものです。
平安時代には、春に見られるものは「霞」、秋に見られるもの「霧」として、上品になびいている様子を表現したものです。
枝垂れ桜とは、枝が柳のように垂れ下がって咲いている桜の総称です。
長く柔らかい枝がゆったり美しい曲線を描いて、風にゆらゆらと揺れながら咲き誇る姿は何処か物優しげで妖艶にも見えます。
花言葉は「優美」で、花の命は短命ですが優雅に咲き散り行く姿が日本人の心を捉え多く意匠化されました。
日本各地に観光名所があり、お花見や夜間のライトアップと現代も人気です。
牡丹は、初め薬用として栽培されていました。徐々にその花の美しさに気づき、皇帝や貴族に好まれ、「王の花」、「花神」として中国で讃えられました。平安時代に日本へ伝わり、菊や葵に次ぐ、権威ある家紋とされました。
柴垣とは山野に自生する柴(雑木)を編んでそれを垣根にしたものです。
日本庭園や茶席に錆びた侘びた風情が合うことから、古都などの観光地でも良く見られます。
その意匠は、茶屋辻(上級武士家の女性が夏の正装に用いた総模様の着物の柄)や御所解(和服の文様の一種などの風景文)にも多く見られました。
梅の木は古来、中国から薬として輸入されました。
寒さ厳しい冬に花を咲かせる梅の姿は、尊い生命を感じさせます。
学問の神様、菅原道真も好んだ梅は平安時代まで、お花見と言えば桜ではなく梅だったとされています。
梅の毎の字は母親を意味し、子を育てる強い母性を意味します。
桃山時代に着物や帯、調度品などの意匠のモチーフとして兎が用いられるようになりました。
兎が波に跳ねている様子は、琵琶湖の竹生島を表しています。
波は、水として火除けの守りとし、兎は月の神とし、子孫繁栄や豊穣をもたらす吉祥文様とされました。
周防山口(山口県)の戦国大名、大内義隆が明に注文し織らせた金襴と伝えられます。
桐の文様は「皇室」のみ利用出来る格式ある紋章でしたが、のちに天皇から政権の統治者「足利尊氏」に与えられました。
天皇家から有力な武家へ、武家からその家臣へと桐紋を用いる家は少しずつ増えていきました。
豊臣秀吉の「太閤桐」も、足利→信長→秀吉へと伝えられたようです。
いずれにせよ、人や家柄が選ばれる高貴な文様として用いられました。
鳳凰と動植物を意匠化した文様です。
正倉院に収められている工芸品は、シルクロードを経た西方諸国の風俗を伝えています。
鳳凰は、桐の木に住み、竹の実を食べ徳の高い君子が天子の位に付くと出現すると言われておりおめでたい瑞祥文様として伝えられています。
日本画家、山元春挙の松文様から名付けられました。
山元春挙は初め、野村文挙から学びその後、森寛斎の門人となりました。
海外でも好まれ、明治天皇も春挙の絵画に惚れ込んだ一人です。
四条派を受け継ぎながら、西洋の技法を取り入れ現代でも愛される松文様です。
雲立涌は、地面から立ち昇る蒸気を表しています。
空へと沸き起こる雲は、運気上昇を意味する縁起の良い有職文様です。
又、格式も高く平安時代には、摂家、関白等の高位者のみが装束柄として用いました。
1200年以上経った今でも、高貴な柄として男子皇族の 指貫(衣冠に用いる太いズボン)に「雲立涌」が用いられています。
藤は、日本に自生する花で藤原全盛期の時に文様として完成されました。
古事記には、男神が女神へ贈った花が藤の花で、そのハートを射止めたということからその慎ましさが好まれてきました。
房状の花が稲穂に似ているということから豊作を願い、しだれ藤の様子は、子孫繁栄を表します。
菊は、薬草(仙花)とも呼ばれ、中国から伝来しました。
日本人にも馴染みのある花で嫁入り道具の布団などに菊文様が使われ、おめでたい花でもあります。
重陽の節句は菊の節句とも呼ばれ、中国では菊を用いて長寿祈願をしました。唐草に菊を施した小菊唐草は、繊細な雰囲気を醸し出しています。
中国では、若松は一年中緑を絶やさない事から「若々しく生命力が溢れる」物の象徴とされていました。
そこから、松は長寿の節操の象徴とも言われいます。
古来、神がこの木に天下るのを「待つ」という意味を込めて、新年に門松を立てて正月を迎えました。
そして、厳しい寒さを凌ぎ緑を保つ松は、吉祥樹とされています。
「日本で最も古い裂」は飛鳥時代にまで遡り、聖徳太子も用いたとされる「絣(かすり)」と言われています。
中国から伝わった高級絹織物で、「間道」の名の由来は「広東」で中国の広東地方で生まれた絹織物で、日本に伝わる際に間道と名を変えて広まったようです。
経糸と赤系統の経糸を使った裂文様であり、法隆寺の献納宝物の中で見ることができます。
平安時代に広く使われた文様です。花の周りを4枚の葉が囲む連続文様で、「襷文」とも「七宝文」ともされています。
中央の花を銭葵の花に見立てて、小葵という呼び名が付けられました。
葵の文様は、「賀茂神社」の神紋に用いられ、葵は、古来「アフヒ」と呼ばれ、「神をもてなす日」という意味が有り、高貴な文様とされています。
水草の「菱」が生い茂り、花が咲き誇る姿を意匠化したものと言われおり、有職文様として装束や調度品に良く用いられます。
菱の先と先が合っている事から「先合い菱」とも呼ばれますが、その後、縁起の良い「幸」さいわいの文字を充てて「幸菱(さいわいひし)」と呼ばれるようになりました。
つる植物が生い茂る様子をデザインしたとされています。植物の縦横無尽に広がる生命力の強さは人類の憧れでした。その象徴でもある唐草文様の歴史は古く、 「古代エジプト時代」にまで遡ると言われています。
輪無唐草は、 平安時代より公家の装束柄に使われ、
今でも神職の正装用の抱柄に見ることが出来ます。
「丁字立涌」とも呼ばれる 宝尽くし文様の一つ「丁字」を用いた立涌文様です。
丁字は、インドネシア原産で日本には平安時代、貴重な薬として伝わり,正倉院の宝物の中にも見る事ができます。
「丁字立涌」のリズミカルな形態が馬具の轡(くつわ)に似ていた事から「轡唐草」と呼ばれたとされます。有織文様として装束の柄として用いられました。
別名『鳥襷』
襷(たすき)とは、着物の袖をたくし上げるために、肩から脇にかけて結ぶ紐のことです。
交差する線を尾長鳥で表現した鳥襷は、有職文様の華やかなバリエーションのひとつです。
屏風裏紙として良く用いられますが、その場合は「雀型」と呼ばれます。
鳳凰は、中国神話の伝説の鳥。
霊鳥で日本や朝鮮等の東アジア全域で装飾やシンボル、物語などで登場します。
本来、中国では聖天子(徳のある優れた王)が即位すると、めでたい象徴である鳳凰が現れると伝えられてきました。
古代ペルシアでは、天空には恵みの雨をもたらす深海があるとされていました。
その海中には聖樹が茂り、不死の霊薬を作っています。
この樹の下は聖地や楽園を意味し、動物は清められ祝福される意味が有ります。
聖樹を中心に動物が左右対称に置く構成は、ササン朝ペルシアの重要な文様として広まりました。
立涌(たてわく)は「たちわく」ともいい、地面から立ち上る蒸気を表す縁起の良い文様です。
平安時代以降は、波型の曲線の膨らみに様々な動植物文様を合わせた種類があり、雲立涌、波立涌、藤立涌、は有職文様として親王または摂政・関白の袍(ほう)や指貫(さしぬき)、女子の袿(うちき)などの文様に用いられました。
地中海沿岸地域では、古くから葡萄の栽培が行われました。
豊かな実りを象徴する「葡萄」への信仰もあり、紀元前900年の遺品に葡萄のモチーフがみられます。
これが紀元前400年頃、ギリシアに伝わりリズミカルな「葡萄唐草文様」になりました。
ギリシアからシルクロードを経て中国へ伝わり、日本へは飛鳥・奈良時代に伝わります。
奈良の正倉院に納められた錦や綾の中に見事なデザインを見出すことができます。
多くの実や房を付ける生命力の豊かさは人類の憧れであり、豊穣と不死の生命の象徴として、いつの時代も人類に「勇気」と「希望」を与えてくれます。
波を扇型の曲線で表す幾何学文様で、無限に広がる大海原に絶える事なく繰り返される穏やかな波は、平穏な暮らしがいつまでも続く様にとの願が込められた吉祥紋様です。
島国である日本は、「シルクロードの東の終着点」とも言われ、船により諸外国からあらゆる文化が入ってきました。
幸福が海の彼方からもたらされる観念はその為です。
日本に古くから野生していた日本固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目されました。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれました。
京都御所紫宸殿では「右近橘、左近桜」として橘が植えられています。
家紋としては井伊氏、黒田氏などが用い、黒田氏の橘紋の由来は、黒田職高が小寺氏に仕えた際に下賜されたことからであり、井伊氏は、井伊共保が生まれた際の故事にちなむとされます。
なお日蓮宗の寺紋「井桁に橘・日蓮宗橘」は、開祖の日蓮が井伊氏一族の出身であることに由来します。
雲の文様は歴史が古く、日本では奈良時代より長い尾を引く優美な天平雲や万年茸に似た霊芝雲があります。
吉祥柄と組み合わせ、有職文として定着したのは、気運がみなぎるところ雲気が動くという中国古文による思想のためです。
文様もバリエーションが多く、横一文字の「一文字雲」、雲を呼ぶ竜を組み合わせた「龍雲文」のほか、「渦巻雲」「枯木雲」などがあります。
関東平野のほぼ中心に位置する古河市では、雪国でもないのに市内至る所に雪華(ゆきはな)紋様が見られます。江戸時代は、現在よりも雪が降る日が多く広範囲に降り積もったようです。第4代古河藩主で老中にもなった土井利位は、当時オランダから輸入された顕微鏡を使って雪の結晶を観察、研究し「雪華図説」「続雪華図説」を出版しました。土井利位の雪華紋は現在も活躍しています。
小堀遠州は、前期の茶人・武将。遠州流茶道の祖です。
茶道を古田織部に学び、優れた美意識を持ち「遠州好み」と呼ばれる茶室、茶道具、庭園があります。
また、画を松花堂昭乗に学び書画・古器の鑑定家としても有名です。遠州の家紋は、七宝の中心に花が入る「花輪違い」です。
唐草文に牡丹花とその葉を配した文様です。中国盛唐時代に牡丹鑑賞が好まれました。
唐代のこの文は、自然主義の造形感覚によって、あたかも写生画をみるような生彩ある表現でした。
日本の遺例では、正倉院宝物中にみられます。または、名物裂の中にも明代のこの文が多く見られます。